「ばらずし」は、京丹後地方にのみ古くから伝わる、全国でもここだけの独特のお寿司です。
とり松では、鯖を独自の製法で炒り炊きにして「おぼろ」にいたします。
その「鯖のおぼろ」をはじめ、椎茸、干瓢(かんぴょう)、たけのこ、錦糸玉子、かまぼこなどの具材をそれぞれ仕込みます。
折にすし飯を詰め、その上に鯖のおぼろと干瓢をちらし、更にすし飯を重ね、その上に鯖のおぼろ・干瓢・たけのこ・錦糸玉子・椎茸・かまぼこ・青豆・生姜を盛り付けます。
すし飯・鯖のおぼろ・その他様々な具が絡み合い、何とも味わい深い、他にはないお寿司になります。
丹後地方の各家庭では、お祭り・お祝い事など、人の集まりには「まつぶた」と呼ぶ長方形の木箱に段上に重ねて作り、朴(ほお)の木の寿司べらで四角に切って取り分け、もてなします。
昔から変わりなく丹後の家庭で作られる「ばらずし」の味は、酸っぱくても、甘くても・・・。
作り手の数だけそれぞれの味があり、作る人の気持ちが「ばらずし」を美味しくしているのです。
子供の頃、このお寿司は、丹後にしか無いお寿司だと聞いて、「えっ、こんなおいしいのに?どっこにもない?」と驚いたものでした。
当時、とり松はそんな丹後にしかないお寿司を「ばら寿司は旨い・お客様に食べていただきたい」と、商品化に取り組みました。
地元では珍しくないお寿司。どこの家庭でも作られるお寿司。
当初は売れない日々だったそうです。
そんなある日、地元のお祭りで販売した「ばらずし」を観光に丹後を訪れていてたまたま購入して下さったお客様が味を覚えていてくださり、しばらくしてその方が紹介して下さり、丹後地方の名物として出展依頼をいただきました。
それを契機に、各地で購入して下さる多くのお客様や関係者の皆様に支えられて、今日に至っております。
感謝の気持ちを忘れずに、皆様に喜んでいただけるように正直に作り続けます。
ほっこり甘く、香ばしいばらずし。心に残る深い味わい。土地の味がございます。
とり松 代表 前川昇平
生徒様より、「前川先生へ」と多数お手紙をお寄せ頂きました。
涙物です。本当にありがとうございます。
◆本で「とり松」がのっているのを見ました。そこで感激したことは、有名なお店の主人が高校生に丹後寿司を教えているのが本当にビックリです。
でも前川先生の教え方は分かりやすいし、作業も楽しかったです。ありがとうございました。
あと、私が大人になった時に「とり松」に行き前川先生が作った丹後寿司を食べに絶対に行きます。
◆コワかったらどうしよう・・て思ってた。
でも話してみたらとてもたのしい人だった。
味見とか、グツグツわいてるナベん中に手をつっこんで味見する姿にちょっとホレました!!
かっこいいなぁって思った。
やっぱり仕事上熱いものをたくさん触るから手の皮がゴツいんですか?!
たくさん教えてくれてありがとうございました(ハート)
◆料理中もとても楽しい話を聞かせてもらい、楽しくお寿司を作る事が出来ました。
料理をすることって楽しいですね。
一生懸命教えていただいて有難うございました。
◆丹後寿司を教えてくれてありがとうございました。
前川先生がとても気さくで楽しい人だったので、変にきんちょうせずに楽しみながら作れました。
今度は生徒じゃなくお客として「とり松」の味を楽しんでみたいです。(笑)
また機会があれば家でも作ってみようと思います。ありがとうございました。
◆家でみんなでおいしく食べました。
あまり気にもとめなかったことを教えてもらって勉強になりました。
家でも作ってみたいと思います。
◆丹後寿司のお話をたくさん聞けてよかったです。
先生が面白い先生で楽しく作ることができてよかったです。
本当にありがとうございました。
当店大旦那指導の中、天候にも恵まれ、和やかな雰囲気で郷土料理「巨大ばらずし」づくりがあり、大勢の参加者で賑わいました。
長さ10メートル、横60センチのまつぶたで作る600人分の巨大ばらずし作りに、地元の子供達も大喜びで挑戦していました。
大旦那 前川 修 が2010年頃に観光協会の依頼で「丹後名物ばら寿司の魅力」というテーマでお話させていただいた時の記録です。
私の母親なんかもお祭りとかなんかの時には必ず作っておりまして、多分どこのお家にも置いてあると思うんですが、昔は「はんぼ」やなしにご飯は、ザルですね。
下にザル、浅いザルのおっきなのにご飯を混ぜてそれでもって下にお皿を敷いて、酢で合わす、その残った酢が下に落ちたのをまたもう一度かける、そんな形でやってました。それが段々と今ははんぼう(飯切)を使うようになりまして、非常に豊かになりました。
まあそんな形で、私は子供の頃よく、コンロで鯖の身をほぐしたのを鍋に入れて、焦げつかんように「ほれ見とけ」と言われまして手伝わされたのを子供心に覚えております。
ですから、やっぱし昔からね、そういったものが身にしみてたんでしょうかね。
で、今は皆さん缶詰が殆どなんですけれども、従来は今言いましたように、鯖は、焼いた鯖。
その焼いた鯖の身をほぐして、それをおぼろにしていった。それが本当なのです。
中村均司先生のアンケートにもございましたように今、鯖の焼いたのを使うのはごく僅かなんですが、今後、ご家庭でされる時には、やはり缶詰でなしに出来れば鯖の焼いたのを求めて、その身をほぐして、それでもってばら寿司をされた方が、缶詰の鯖とまた違った味、これが本当だなと感じていただけると思います。
私が商売を始めたのは昭和36 年ですね。
うちがちっちゃなうどん屋をしていて、僕が後を継がんとあかんなあとなり、修行をしてたまたま3 6 年に引き継ぎました。まあ親孝行だったんですね。
それで、昭和50年までずっと同じようなメニューで続けていました。
昭和50年に網野のにしがきのあるところから今の場所に移転しました。
移転3 年目位だったか、そのときのメニューがちょっと面白くなく、僕はばら寿司というものが大好きでしたので、どうやって皆さんに食べていただこうかなあということがずっと頭にあったものですから、それをメニューに加えたんですけども、全然売れなかったですね。
一日に2 升炊いたごはんが、どうでしょう、2 合、3 合出たんでしょうかねえ。後、みんな捨てました。
これが毎日です。殆ど捨ててたんですね。
それを、なんやかんや言いながら、もう、やりかけたら意地だ!というような形で続けたんですけど、昭和54年に転機が訪れました。
昭和54年に網野の役場の方から、料飲組合の方で何か名物を作ってくれというような依頼を受け、委託されました。
組合員全員集まって何をしようかという話になって、丹後だったらばら寿司しか無いじゃないかという話になり、じゃあそれをやろうと決めたんです。
みんなで、やろうやろう!チューリップ祭りなんかもあるし出すんならやればいいという話になったんですけども、それが皆さん、いざとなると、めんどくさい、邪魔くさい、ようせんわ… というような話ばかりになったんです。
町から一応聞いてしまったし、今更後に引けんという形でしたら、「おい、おみゃー(お前)やれ」と結局私がやらされる羽目になりました。それで、家のメニューから飛び出したのがその時なんです。初めてのことでした。
それからそれを、チューリップ祭りだとかちょっとしたイベントなんかにちょくちょく持って行きました。
その時もあくまでも家の名前ではなく、料飲組合という看板で出していました。まあ組合を代表して出してもらったという形でしたね。
そうこうしているうちに、昭和6 0 年の秋ですね。正月に京都大丸で、京の趣の展覧会ということで、京都府下のいろんな物産展をやると。そこで網野の方でも何か出してくれというような話が、うちではなく、今でいう振興局に来たみたいです。
その話を、網野町の役場に持ってきたようなんですけども、役場の方で「いや一そんなもん丹後にはありません。何もないですわ」ということで、話が帰ってしまった。
京都府の観光課課長の女性の方がその話を聞いて、「いやそんなことはない、前にそちらに行った時、チューリップ祭りで買ったお寿司が非常に美味しかった。あれは良いじゃないか」という話になりまして、また、話が返ってきましてね、振興局の方から、役場に、「府の観光課の課長さんがこう言ってたけど本当に無いんか?」と。
まあ役場の方も皆さんそんなに関心無かったと思います。関心無かったものに声をかけられ、思いがけなかった。
それでうちに直接役場の方から、どうだ?ということで、それだったらあるけどあんなもんで良いのかという話になり、一旦断ったものが、ほんならやらせてくださいということになりました。
ただ、OKの返事はしたんですけども、どうしてもうちの都合でその年の正月に間に合わなかった。
といいますのも、私の父親が丁度催事のほん前に亡くなったものですから、急逮お流れになっちゃったんです。
そうこうしているうちに、昭和6 1 年秋に東京の方で同じようなことがあり、そんならそっちでということで、初めて出させていただきました。それが第1 回目のデパートの話なんです。
私、ばら寿司というのはほんとにどこの家にもありますし、こんなもん売れるんかいなとほんまに思ってた。
ところが、実際出してみると、無茶苦茶に売れちゃったんですね。
ほんで、自分なりに何故かなあと思っておったんですけども、いわゆるこういったものがたぶん欠けていたんだなあと思います。
お客さま方、存じてなかった。知らなかったのが、何か心に、こうプンとインプットされたものに火がついたといいますか、そんなような感じを受けた。
別に良く飾った商品でもありませんし、華やかなもんでもありませんけども、丹後のばら寿司そのものが、実に素朴で何も手を加えていないところも良かったんじゃないかなと自分なりに思っています。
デパートさんのところにはいろんなバイヤーさん・いろんなデパートさん同士が見に来るんですね。それがきっかけで「じゃあうちでもやってくれんか」ということで、東京で売ったものが次は京都の方でうちのデパートの中でというふうに、一気にざーっと広まっちゃったんですね。
そんな中で近畿村おこし物産展という府の主催の催しがありまして、それに出た時に求評会があり、デパートさんもいっぱい見にこられていました。評価され点数をつけられて、「これはいい商品だ、うちでも作ってくれないか」と言われて、一気に広まっちゃった。
うちはデパートというのは全然頭になかった。花形ですからね。昭和60 年当時、デパートなんかで商品を売るっていうのは本当に目の上のことでしたので、どうやって売ったらいいかさっぱりわからなかった。何もかも分からずに今思えば冷や汗ものです。
そんな中で、お客さんの反応、お客さんに助けられました。
お客さんが、おいしかったとか、笑顔で買っていただいたり、色んな評価が良かったんですね。
それに助けられ、元気づけられて、それじゃあもっと本物を分かってもらわなければいかんなと思うようになりました。
うちの方からは言わないんですけど、各デパートさんの方から言ってくれる。言ってくれれば言ってくれるほど、重荷になるんですね。
お客さんに美味しかったと言ってもらうと、なおさらそれにお答えするには絶対に変なものは出せませんからプレッシャーがかかりっぱなしでした。
そのプレッシャーの中で、どうやってやっていけばいいかと悩んだこともいっぱいありました。
といいますのは、このばら寿司ってやつは丹後だけで、この辺だけで分かってもらったらええなという頭しかありませんでしたので、外へ出ること自体、あちこちのデパートで売ること自体にちょっと抵抗があった。
でも、物産展という名の中でしたので、まあ仕方ないかなあと思って、色んなことを経験させてもらいました。
一つ面白いことがありましてね。ある日、うちの方にある方が取材に来られまして、雑誌の記者なんですが、ばら寿司の取材をさせてくれということなんです。
いいですよということで、まあ写真を撮ったり色々としたんですけど、「何でうちに来たんですか?」と聞いたところ、その理由が面白かったんですね。
実は、あんたのとこの商品、東京の渋谷のデパートで買いました。その渋谷のデパートで全国のお弁当とうまいもの大会をやっていて、何十軒とお店が出ていてどこも超満員でとても買えるような状況じゃない。並んで並んで大変でした。
ところが、あなたの店だけはだれも居ませんでした。これだとすぐ買えるし、仕方ない、買うもんないからしゃーないな、これでも買おうと思って買った。そして、家に帰って食べてみたら、おっとこれはうまい。こんなものがあるのかということで取材に来たそうです。
初めて体験しました、あんな話は。
たまたま食べた方が雑誌の記者の方、それで、突然お見えになって、お陰様で、次の号の2 ページにどんと大きく写真入りで出させていただきました。
人間なんて妙なもので、その都度都度の大事さというものをつくづく痛感しました。
恐ろしいですね。商売やってると。
そんなこともいろいろございましてね、デパートさんにしたら、どこが売れる・売れないということもあるのですけれども、ばら寿司は「どこにもない味」であると皆さんおっしゃる。
私は催事で丹後の話しかしません。私自身の店の話は一切しません。
「是非丹後へいらっしゃい。丹後がわからなければ、京都へいらっしゃい」と。
といいますのは、皆さん京都へはよく行くとおっしゃる。私も市内のことはよく分かりませんが、知ったかぶりをして「京都はいいとこですよ」と。そしてたいてい「丹後へいらっしゃい。丹後はいいとこですよ」という話しかできないんです。
うちの店に来いとは絶対言いませんね。丹後へ来てください。まず、それが第一だと。
きざな言い方かもしれませんけども、私はそう思っております。
今でもその通りです。
これは売り場の話になるんですが、デパート出店の最初の時に売り場に行きまして、売り子さんに「お客様いらっしゃい」の言葉・キャッチコピーをどうしたらいいか、デパートの人と話したんです。
するとある方が、「簡単ですよ。売り子さんにはまず食べてもらいなさい」と、その一言です。
なるほど、まず売り子さんに吟味していただく。まず、真っ先に何も言わずに食べていただく。
それで、もう何も言いません。おまかせです。食べていただいて、その評価そのものがお客様に伝わるわけです。
あぁ言えこう言えといろんなことを言っても駄目です。まず食べてみなさい、それを食べてもらいなさいと。その一言でした。
それは今でも大いに参考になっています。これはどんな商売でも通ずることだと思うのですが、職人以外のことでも通ずることだと思います。
お客様に使っていただく、体験していただく、さわっていただく、また味を見ていただく、これが商品には一番近道だと思っております。
お話ししたいことはたくさんあるんですけど、この前も新潟県から長野県への峠の斑尾高原という雪深いところで、鯖を使ったばら寿司の話をちらっと聞いて、わざわざ行きました。
バスも1日1 便か2 便くらいしか通っておらず、タクシーで19, 000 円、峠の一番上のちょっと茶屋みたいな店でした。
そこで買ったんですけども鯖が入っていないんですね。聞くと、それは殆ど使わない。
笹寿司ですね。笹の葉っぱにご飯を載せてーロで食べる郷土料理なんです。胡桃だとかおつけ物だとか、そういったものがーロ乗っている。仕方がないから帰ろうと思っていたら、民宿もされている、もうすぐご飯が炊けるから待っていてくれ、すぐ作るからと言うので待つことにしました。その間にお茶を出して、わざわざ作ってくれた。気持ちが美味しかったです。その一口のお寿司が非常にうまいんです。胡桃とかおつけ物だとか、たくあんの炊いたような細かい刻んだ野菜なんかを笹の葉っぱに乗せて、葉っぱを握るようにして食べる。それが名物で、その地方だけしかない。
その時にわざわざ行った甲斐があったのは、ばら寿司を見に行ったのだけど、その民宿のおばちゃんの、実にぶっきらぼうなんですけれども、わざわざ作ってくださる接客ですね。ご飯炊いたのをじゃあ作ってあげますわと言って30 分位…もっと待ったでしょうか。作っていただきまして、あの気持ちですね。あの接客、あれがいわゆるローカルの良さかなあと。大都会の中ではとても考えられませんけども。そういった気持ちが伝わったことが私は非常にうれしかった。
そんなことで、商売ですのでばら寿司をお客様におすすめしますけれども、こんなおばちゃん、丹後の方にも多いんですよ。
私は北海道から沖縄まで行きますけれども、どこに行っても丹後出身の方が必ず居られます。絶対居られます。居られまして声かけていただくんですけども、私に声をかけるんではないんですね、ばら寿司に声をかけてくれます。
丹波の方だったんですが、「わー懐かしい!」とか言って来られました。私はその方の顔を知りませんからね全然、お客様も多分ご存じないと思います。
丹後の名物のばら寿司と書いてありますから、それだけで来られるんです。
丹後に親戚がいます、嫁に行きましたとか、声をかけていただくんです。
お客さんには「うちに買いに来るのではなく、自分で作りなさい」と必ず言います。「自分の家で作ったお寿司がずっとおいしいです」と。実際そうなんですよ。
みなさんもたぶん「よそで作ったのよりうちで作ったお寿司の方が美味しいわ」と思っておられると思います。またその通りなんです。ですからその時は商売抜きですね。実際ね、横着せずに自分で作れるんですよ。
私くらいでしょうかね、買いに来られたお客さんに、買わずに自分で作れというのは。
で、一言「できたら私もいただきます」と付け加えさせていただきます。
一週間の催事ですので、その間に作ればまた持ってきて頂くこともできる訳ですから。
そんな形でデパートさんとの付き合いをやっておるんですけれども、繰り返しになりますけれども、お客様がばら寿司というものに郷愁を感じておられるということが、身にしみてよくわかりました。
丹後の良さというものが改めて私は非常に有難かったと思っております。
先人の作ったものを受け継いで、私はマネして提供しているだけなんです。
本来ならこういった食べ物とか名物は、地域から外へずんずんずんと広がっていくのが当たり前なのですけれども、丹後では身近すぎた食品です。どこにでもある食品なんで、身近すぎて、皆さんが知りすぎて、ですから案外外に出ていなかったのです。
普通は、丹後から発信していって徐々に出回っていくのが当たり前なんですけど、このばらずしに関してお問い合わせなんかはなぜか都会の方からの方が多いです。
お店にも、都会からどんどん来られるんですね。
ばらずしのことを聞いたから、食べたいからと言って来られるんです。
それでまあ、丹後のばら寿司は、外から中へ入ってきて広がってきている。
一気に外へ飛んじゃって、それから中に入ってきた特異な例ではないかと私は思っております。
これから、もっともっと多くの方に、丹後に来ていただけるといいなあと思っております。